佳作賞・研究論文

幼児の頭足人的表現形式の本質と脳から見た人体説

高橋敏之(たかはしとしゆき)
1958年8月26日生
広島大学大学院学校教育研究科修了
岡山大学教育学部(助教授・幼児教育講座)



概  要:
 筆者が現在最も関心をもっているのは、幼児の描画活動に自然発生する人間表現である。その初期表現は、欧文では“Kopffussler”、“bonhomme tetard"、“head-feetrepresentation”などと記述され、和文では「頭足類」、「頭足人」、「頭足表現」などと翻訳されてきた。しかも世界中の幼児が、言語、習慣、民族、国籍を越えてこの表現形式による人間描画をすると言われている。
 ここでの問題になるのは、幼児の描く頭足人的表現形式が、なぜあのような共通性のある不思議な形態をとるのかである。1887年に公刊されたC.Ricciの著作には、既に頭足人的表現形式に関する記述がある。それ以来1世紀以上にわたって、美術教育あるいは幼児教育の研究者はこの謎解きに挑戦してきたが、依然として未解決のままである。筆者は1990年12月26日からこの問題に取り組み、ようやく1つの結論に到達したのが本研究である。


T.用語の統一と研究目的

 幼児の描画活動に自然発生する人間表現は、その初期において頭部、体幹、四肢が様々に組み合わされた不思議な様相を呈する。これらの人間表現は、欧文においても和文においてもこれまで様々に表現されてきた。主要な文献を見る範囲でも70種類以上の記述を拾い上げることができる。その中からいくつか挙げてみると、“bonhomme sans tronc ”(1)「胴なしの人間」(2)、“tetard”(3)「おたまじゃくし」(4)、“hommes tetards”(5)「頭だけの人」(6)、“bonhomme tetard”(7)「頭足人」(8)・「頭足人間」(9)、“Kopffussler”(10)「頭足類」(11)、“tetard-figures”(12)「おたまじゃくし型」(13)、“figure without a body”(14)「胴なしの人体」(15)、“cephalopods”(16)「頭足類」(17)、“‘tadpole’figures”(18)「〈オタマジャクシ的〉人物」(19)、“head-feet representation”(20)「頭足表現」(21)、“head-feet symbol”(22)「頭足人という表象」(23)などである。
 先行研究を全体的に見渡して、多くの研究者が使用または引用しているのは、“Kopffussler”と“tetard”という用語である。前者は、軟体動物であるタコやイカの仲間を意味する「頭足類」という意味のドイツ語であり、後者は蛙の幼生である「おたまじゃくし」を意味するフランス語である。H.Eng(1927)の著作(独語版原著)には、これら2つの用語の紹介があり、既に専門用語として普及していたと考えられる。W.Grozingerの著作の英訳書(1955)で使用されている“cephalopods”は、英語における「(イカ・タコなどの)頭足類動物」の意味である。いずれにしても、幼児の初期人間表現は頭部と脚で出来た構造であるという概念が当時の研究者にはあったと指摘できるだろう。英語で使用されているもう1つの用語は、“head-feet representation”である。この用語は、V.Lowenfeld(1947)と W.L.Brittain(1979)が使っており、それがそのまま日本語に翻訳されて「頭足表現」になったと思われる。本研究では、これら一群の用語が示す幼児期特有の人間表現を「頭足人的表現形式」(以下「頭足人型」と略す)と記述する。
 筆者は、これまで頭足人型に関する研究の問題点を洗い出し、特定幼児2名の頭足人型の構造と変異性について事例研究してきた。本研究は、今日まで頭足人型の理論的説明として提唱されてきた見解・学説を包括的に補足しながら、「幼児の頭足人的表現形式の本質と脳から見た人体説」の主題のもとに筆者の見解を表明するとともに、頭足人型の構造と本質に迫るものである。

U.頭足人型に関する先行研究概観

 幼児の描く頭足人型に対する学術的着目は、C.Ricci(1887)が最初であると考えられる。その著作には、図1zu1に示すような頭足人型が掲載されている(24)。その後110年間の頭足人型研究を俯瞰すると、先行研究は大きく5つの学説に分類できる。つまり、先天的記憶説、自己中心性説、象徴表現説、主知説、表現未分化説である。ここでは、これらの学説を概観してみよう。ゴシックは筆者による。

1.先天的記憶説
 頭足人型のある種のバリエーションが、先天的な「形態記憶」(25)によって描かれると考える説をここでは先天的記憶説と呼ぶことにしよう。先天的記憶説を主張している研究者は、長坂光彦(1977)やBrittain(1979)などである。例えばBrittainは、「頭足人という表象は…生まれながらにもっているもの(almost preprogrammed at birth)なのではないか」(26)と述べている。この学説を支援できる記述をH.Eng(1931)、H.Focillon(1942)、H.Read(1943)、W.Grozinger(1952)、R.Kellogg(1969)などの著作に見つけることができる。確かに図2zu2のような頭足人型の初期構造を観察すると、それらは先天的な形態記憶によって描かれるのではないかという印象を与える。
 しかし、それらに共通しているのは、決定的な証拠がないという点で、科学的な裏付けは不十分である。なぜなら当然問題になるのは、それではその人類としての「形態記憶」の「記憶痕跡(エングラム[engram])」(27)の局在は大脳のどこにあるのか、ということである。おそらく新皮質といわれる大脳皮質ではなく、古い脳と言われる視床下部や海馬などが関与しているのではないかと推定できるが、大脳生理学においても未解決の問題である。あるいは、明確な「記憶痕跡」の局在などというものはなく、K.H.Pribram(1971)が主張するように、「…思考とは、…適切な情報を獲得するために、分布したホログラムとしての記憶の中を探索すること」(28)であり、後天的な記憶情報と同様に人類の記憶も、「脳全体にホログラフィックに分散・貯蔵されている」(29)のかもしれない。
 現在我々は、残念ながらこれらの疑問に正確に答えることができない。なぜなら我々は、これらのことについてまだほとんど分かっていないからである。つまり、実証的なデータを十分入手していない。しかし、正確に研究する興味と価値がある主題である。そして、その解明の手がかりは、図2のような頭足人型の初期構造よりもむしろ、それら以前に発生する図3zu3のような有機的原形構造の人間表現への発展にあると考える。

2.自己中心性説
 頭足人型は、視覚と運動感覚による自己認識によって描かれるのではないか、という見解をここでは自己中心性説と呼ぶことする。自己中心性説を主張しているのは、人間の生命維持活動から説明したRicci(1887)、幼児の視覚が捉える自分自身の身体から説明しているH.Wallon(1954)、井手則雄(1975)、Brittain(1979)などである。例えばWallonは、「自分の身体のなかで、はっきりと目に見えるものは手足の動き以外にない」(30)と述べている。
 どんな人でも最もよく知っている人体は、自分の体である。幼児においても同様のことが言えるであろう。自分なりに自分の体を観察し記憶しているに違いない。確かに自分を中心に考え、見ていると考えられる。しかし、幼児が自分自身に関する情報だけで頭足人型を描いているという説明には限界があると考える。なぜなら、直接目で見える自分の体は、腕と脚それに胴の前面である。自分の顔を直接見た者はいない。幼児がこのような視覚情報だけをもとに頭足人型を描くのであれば、正面から見た人間描画にはならないはずである。頭足人型の描画に視覚の参与は確かにあると考えられるが、それがすべてを主導するのではない。さらに、自己中心説の一部は、主知説と深く関連する。したがって自己中心性説への批判は主知説へも適用できるが、同時に主知説の詳しい吟味が必要であるという課題も提供している。

3.象徴表現説
 頭足人型は、幼児が創作した人間の表象・象徴・表徴であるとする見解を、ここでは象徴表現説と呼ぶ。象徴表現説を唱えている研究者は、J.Sully(1895)、L.S.Vygotsky(1930)、Lowenfeld(1947)、Brittain(1979)らである。例えば、Lowenfeldの「円形なぐり描きは頭を示すものとなり、経線なぐり描きは身体の拡がりを象徴するようになる」(31)という記述を挙げることができる。
 「ハトは平和の表象である」と言うときの「表象」は、「具体的なものによって、精神的な存在を暗示すること」という意味である。しかし、人体という具体物が目の前にありながら、3歳前後の幼児がそれを無視して人間の精神的・抽象的な内面を頭足人型に表象(象徴)して表現すると考えるのは難しい。そこで、表象の意味を「記憶・想像にもとづいて心の中に再生された心像」とすれば、その心像をもとに幼児は頭足人型を描くという仮説が成立する。そうすると、@幼児が「記憶・想像にもとづいて心の中に再生された心像」を頼りに人間を描くとなぜそれが頭足人型になるのか、Aなぜ頭足人型にはある種の共通性があり類型化できるのか、という疑問に答えなければならない。表象・象徴の意味と頭足人型との関連性を突き詰めていくと、結局この考え方は、一般的に主知説と呼ばれているものへ限りなく収束し、ほぼ同じものになる。

4.主知説
 主知説は、英語においても日本語においても微妙に文章表現が異なるが、ここではEng(1931)の著書と訳書から引用して、“Children draw what they know, not whatthey see.”(32)「児童はその知っている事を描くので、見た通りに描くのではない」(33)と記述しておこう。R.Arnheim(1954)によれば主知説は、H.Helmholtsが「1860年代に普及した考え方を踏襲している」(34)。そして、鬼丸吉弘(1981)によれば、主知説は「これまでおびただしい研究者によって賛成され、採用されてきた」(35)。その研究者とは、S.Levinstein(1905)、G.Kerschensteiner(1905)、D.Katz(1906)、M.Verborn(1907)、W.Krotzsch(1915)、K.Buhler(1918)、G.H.Luquet(1927)、H.Eng(1931)など(36)である。
 結局、主知説の問題点は、“what childrenknow”「知っていること」の本質をどう捉えるかにある。視覚的情報は、「視覚的コード(visual code)」にも、「言語的コード(verbal code)」にも変換される(37)。このことは、視覚以外の感覚と言われるものにもほぼ共通する。つまり味覚、嗅覚、聴覚、触覚なども「感覚的なイメージコード」(38)または「言語的コード」に変換されており、通常は二重構造として表裏一体になっている。主知説の欠陥は、この点を明確に認識して命題を記述していないところである。

5.表現未分化説
 主知説を批判した代表的研究者は、Arnheim(1954)である。彼はEng(1931)の記述を基礎に、「簡潔の法則」と「表現の未分化」によって(39)主知説を批判した。その根拠となった彼の理論を、ここでは表現未分化説と呼ぼう。その説によると、頭足人型には2つのタイプがある。第1は頭部から四肢が出たように見える頭足人型の円が「人物全体をあらわす」タイプ、第2は2本の脚に見える平行線が「胴体であると同時に、独立した脚でもある」タイプである。
 Arnheimの表現未分化説に近い説明は、長坂(1977)、J.Goodnow(1977)、鬼丸吉弘(1981)、加藤義信(1995)などの記述に見つけることができる。しかし、頭足人型は人間表現の未分化な状態であるとする表現未分化説は、修正の余地があると指摘できる。なぜなら、筆者の観察によると人間表現が頭部から始まる例があり、頭足人型が人間表現の始まりであるとする考えが既に間違いである可能性がある。例えば、筆者が観察した特定幼児K(男児)は、図12に示す頭足人型を描くまでに図9を始まりとする33個の頭部を描いている。また同様に特定幼児Y(女児)は、頭足人型を描くまでに46個の頭部を描いている。つまり、顔の表現が十分分化した後に頭足人型が発生した場合、円が頭部と胴体の未分化な表現であるとは言えない。また、Arnheimが頭部と胴体を同時に表現しているとする人間画の前段階あるいは直前に、胴体が表現された人間画や動物画が存在する観察事例を提示することができる。こういう場合の理論的説明においても表現未分化説は無力である。

V.頭足人型に関する学説の問題点と課題

 なぜ、幼児は頭足人型を描くのか。頭足人型は、なぜあのような不可思議な形態で描かれるのか。Ricci(1887)以降、美術教育あるいは幼児教育の研究者達は1世紀以上にわたってこの謎解きに何とか解答を得ようとしてきた。しかし、どの研究者の学説も問題の真の本質をえぐっていないように思われる。頭足人型を論理的に説明するためのこれまでの研究者の見解は、上述したようにどこか不完全で、その構造と本質を説明できていない印象を与える。
 その原因の第1は、特定幼児を観察対象者に縦断的研究を行い、頭足人型の発生から消滅までをつぶさに観察したデータの集積から帰納的に結論を導こうとしていない点である。Read(1943)(40)、W.Grozinger(1952)(41)、長坂(1977)(42)、鬼丸(1981)(43)らは、断片的な描画資料をもとに頭足人型を人間描画・人間表現の始まりと捉えているが、筆者はこれを誤りであると考える。
 第2は、頭足人型がもつ変異性に気づいていない点である。Readは「図式の整合の進歩」(44)と説明し、Grozingerは「頭足類の発展」(45)と述べているが、おそらくそういう単純なものではない。なぜなら、幼児Kの1事例からでも多様な表現形式をもつ頭足人型を観察することができるからである。頭足人型の変容は、これまで考えられてきたようなものではなく、おそらくもっとダイナミックで瞬時に展開され、しかも複雑なものであると考える。したがってP.Osterrieth & A.Cambier(1976)の研究(46)を基礎に、頭・胴・脚・腕の組み合わせに着目した構造特質によって分類体系を整備する必要がある。
 第3は、これまでの研究者が構造特質の違う頭足人型を銘々に取り上げ、それぞれを1つの学説で説明しようとしてきたことである。頭足人型を含む人間表現は描画表現の1主題であり、その表現欲求は、脳のどこかで生成・生産されていることは間違いない。何かがその表現欲求を主導し、支配しているのであろう。つまり、何を衝動に人間描画するのか、それに何を参与させて人間表現するのかによって、結果としての人間画に多様性が生じる。しかもそれらは、前後の脈絡がほとんどないように思える出現の仕方をする場合がある。これが、頭足人型の研究を困難なものにしていると考える。

W.先行研究批判の核心的課題と事例からの解明

 Eng(1931)らが主張する主知説もArnheim(1954)が主張する表現未分化説も、その論説の対象は同じである。幼児が行う描画現象としての頭足人型を指して、主知説は印象群と知的知識の合体であると言い、表現未分化説は表現の未分化な状態であると言っている。これらの議論が誤りであるらしいことは、容易に推察することができる。なぜなら我々は、Eng(1931)の言う「不正確な統合」(47)やRead(1943)の言う「図式の整合」を人間画以外ではほとんど見ないからである。また、Lowenfeld(1947)の言うように「能動的に重要なものだけを描く」(48)のであれば、頭足人型のような不可思議な形態を他の対象物においても見るはずである。同様に、Arnheimの言う「未分化な表現」(49)を人間表現と同じ頻度で、他の対象において見つけることができないし、「未分化な表現」の前に分化した描画表現が存在することもある。
 例えば、取っ手だけのカップ、車輪だけの自転車、長い耳だけのウサギ、長い首に足の生えたキリン、長い鼻と大きな耳に足の生えたゾウ。我々は、このような子供の絵をほとんど見ない。先行研究の中にもこのような描画は、見当たらない。不可思議な形態が発生する頻度は、人間表現における頭足人型が圧倒的に多い。このことを実証するために、筆者の観察した幼児Kの描画作品を見てみよう。『 』でくくられたタイトルは、K自身がつけたものである。また、図タイトル末尾の例えば(2・4・21)は、2歳4カ月21日目に描画したことを意味する。
 Kが描いた魚や蛇や鳥や馬には、頭足人型に見られるような胴の省略がなぜ起こらないのであろうか。図式を整合させたり、未分化な表現としての不可思議な形態の動物をなぜ描かないのであろうか。なぜなら、図4〜11zu4zu5zu6zu7

zu8
zu9 zu10 zu11
の描画は視覚的刺激・視覚的情報・視覚的知識に支配されているからである。2歳4カ月から2歳6カ月の年齢においてでさえ幼児の視覚的概念というのは、このようにしっかりしている。ところが筆者のこの見解は、Engの記述と全く一致しない。つまりEngは、「児童の眼の前に置かれたモデルも、また彼等の心の中に存在していると仮定せねばならぬ事物の記憶像にしても同様、その通りには描けぬのである」(50)、あるいは「彼等の記憶像は、明瞭でも区別可能なものでもなくむしろ、ぼんやりとしておりまた不完全である」(51)と述べている。そして、観察対象者のマーガレットが6歳2カ月22日目に描いたノルウェーの旗の記憶の不正確さを例に挙げている(52)。
 しかし、このようなことは我々大人にも日常的に起こり得ることであって、幼児や児童の記憶の不正確さを証明することにはならない。興味関心をもっていないものに対しては、幼児であろうと大人であろうと、記憶像というのは不正確なものである。例えば図16zu16は、児童(小学生)と大人(大学生)が描いた鶏(53)であるが、小学生の方がはるかに正確である。また図15zu15は、Kが5歳2カ月14日目に「眼の前にモデルを置いて」描いた『ザリガニ』の写生である。したがって、幼児はモデルも記憶像も正確に描けるのである。
 結局、先天的記憶説、自己中心性説、表現未分化説などは、特定の描画現象を説明することができても、頭足人型の発生から終焉というような長い期間の説明すべてに適用できない。一連の描画現象を説明するときの、これら学説の含有率、占有率が問題であると同時に核になる理論が抜け落ちているように思える。なぜなら、2歳8カ月17日目で図10のような顔の表現形式を既に獲得している幼児Kが、22日後図12zu12のような頭足人型を描き、さらに2カ月後、2歳11カ月10日目に図13zu13に示す『みきちゃん』と題するマンダラ構造をもつ人間頭部を描くという現象は、1通りの論理的説明からでは困難であろうということが容易に想像できるからである。

X.頭足人型の本質

1.脳から見た人体説
 それでは、自分の見た対象物を正確に再現できる描画能力をすでに獲得している幼児が、人間全体を描こうしたときには、なぜ頭足人型のような不思議な形態になるのであろうか。図4〜11に見られるデッサン力が図12〜14では、なぜ発揮されないのであろうか。図鑑やテレビでしか見たことのない馬でさえ、ちゃんと胴体ありで描くことができるのに(図11)、その直後に描いた初めての頭足人型(図12)に胴体がないのはなぜか。その理由は、視覚だけを頼りに描いていないからである。それは、視覚的刺激・視覚的情報・視覚的知識以外の何かが描画行為の核心にあることを暗示させる。それは何であろうか。それは、潜在意識としての何かである。この問いに対する筆者の解答は、脳が捉えている自分の姿が人間描画に大きく参与し描画欲求を発動しているからである、というものである。
 つまり、頭足人型の説明に最も有力なのは、大脳新皮質の体性感覚野と運動野であると考える。体性感覚野は、「触覚・圧覚・温覚・冷覚・痛覚などの表面感覚[皮膚粘膜感覚]と、筋・腱・関節による深部感覚」(54)を主体とする。これらは、図17zu17に示すような(55)大脳皮質の「中心溝に沿った前方の帯状の領域」(56)の運動野と密接な相互関係にあり、「この皮質表面の電気刺激に対する反応の順序には、個人によって相違することはない」(57)。これらのことを学術的に発見したのはW.Penfield & H.H.Jasper(1954)(58)で、大脳皮質の中心溝に沿って切断し、この機能を限定的に取り出して図式化すると図18zu18のようになる(59)。時実利彦(1962)は、大脳新皮質の体性感覚野と運動野の局在の大きさに比例した人体を描き加えた図19zu19を著作に掲載している(60)。この図をさらに立体的な人体に示すと図20zu20のようになる(61)。このように「脳は、こういう形で、体の各部をみたり、感じたり、動かしたりしている」(62)。
 これが、頭足人型のあの不可思議な構造特質を形成させると同時に、ある種の共通性を生じさせる最大の要因である。見方・感じ方・動かし方に個体の差はあっても、脳が人体を捕捉するときのその仕方に、人類という種としての差はない。言語・習慣・民族・国籍を越えて頭足人型が発生し、そこに共通性が存在するのはこのためである。例えば、食べ物の消化の際に消化液の出方に個人差があっても、消化器系と消化機能には基本的には差がないのと同じである。臓器に砂嚢を持った鶏のような人間はいない。脳が捉えた人体に、視覚が捉えた映像や、言語的知識、それぞれの個別の体験、環境などが付加されて頭足人型の多様性を作り出すと考えられる。これら様々な自発的動機を契機に描画欲求というものが形成されていると考えられる。したがって、主導するもの、支配するものによって最終的な頭足人型の現れ方が全く変わってくる。

2.事例研究からの実証
 頭足人型を大脳生理学から説明した上述の筆者の説明を、これからは「脳からみた人体説」と呼ぶことにしよう。
 それでは、特定幼児Y(女児)が描いた頭足人型を事例に、脳から見た人体説を証明してみよう。図21zu21は、幼児Yが3歳0カ月16日目に描いたものである。左は「頭-脚-腕」構造で描かれた頭足人型であり、右には「お腹に赤ちゃんのいるお母さん」が描かれている。お母さんは、頭部と胴体を同一の輪郭によって描かれており、頭部と胴体が一体として描かれている。赤ちゃんは、レントゲン描法によって描かれている。
 お腹の中の赤ちゃんを肉眼で見ることはないのだから、直接的な視覚的知識はない。間接的な視覚的知識としては、ほかの赤ちゃんの姿、自分が赤ちゃんの時の写真、テレビなどに出る赤ちゃんの映像、雑誌や本に掲載されている赤ちゃんの写真や絵などが考えられる。お腹の赤ちゃんを見ながら人間描画したわけではないので、この人間画は、どうしても妊娠9カ月で大きく膨らんだ母親の腹部という視覚的知識と「お腹の中に赤ちゃんがいる」という言語的知識によってこの人間表現はなされた、としか説明のしようがない。したがって、Arnheim(1954)の「見たものを描く」という反主知説の学説は、この場合誤りである。脳から見た人体に視覚的情報と言語的知識を加味して描いたと言える。
 幼児Yは、2日後の3歳0カ月18日目には図22zu22を描いた。「ママと赤ちゃん」、「パパ」、「ゆいちゃん」(Y自身)の3人の人間が描かれている。ここでも、脳から見た人体を基盤にした頭足人型に、言語的知識と視覚的知識を加味して人間描画したことが看取できる。すなわち、眼鏡の視覚的知識と「パパはめがねをかけている」という言語的知識によって、パパには眼鏡が描き込まれている。ママには、先ほどと同じ理由で赤ちゃんが描き込まれているが、図22では子宮の中で逆さになっている胎児をそのように正確に描いている。これは母親がYに対して、「赤ちゃんはお腹の中で逆さに向いているんだよ」と語りかけたその言葉の記憶を自分の描画に反映させたものである。図21では、未分離であった頭部と胴体が、図22では分離して表現されている。このように、幼児の人間表現は2日間くらいでも大きく変容する。
 したがってこの事例は、Arnheim(1954)が「具体的事実に関して抽象的、知的概念をつくることは、子どもには、きわめてまれであるようだ」(63)と指摘するように極めて稀なことであるか、あるいは、Arnheimの指摘が誤っているかのどちらかであろう。

Y.脳から見た人体説の妥当性

1.頭足人型とトルソ
幼児の人間表現が解剖学的に不完全であるのを指摘するのは、はなはだ滑稽である。ReonardoやMichelangeloの人物画や人体彫刻を解剖学的に誤りのない完全な作品と言うのであれば、およそこの世のほとんどの芸術家あるいは作家と言われる人々の人物をモチーフにした作品は、解剖学的に不完全であろう。
 幼児が、芸術家の制作する例えばトルソのようなものを見て、もし命名することができれば、〈胴だけ人間〉あるいは〈逆頭足人〉と呼ぶであろう。その表現意図が分からないからである。問題の本質は、幼児と大人が互いの表現の本質と形式を理解していないことである。幼児が胴体のない人間を描いて澄ました顔をしたり満足げにしているのは、我々大人の視覚的知識を主体にした写実的表現とは描画欲求の発動の根源が違うからである。したがって、解剖学との関連性において幼児の頭足人型を議論するのは無意味である。
 彫刻家がトルソを制作するのは、手足と頭を切り飛ばしてまで胴体に視線を向けさせないと、我々の注意は胴体に向かないことを物語っている。彫刻における量塊性と普遍性の追求は、時として手足や頭の割愛を指向する。両腕・両脚・頭部と言うのは、それほどまでに感情の表出と直結していると同時に、脳が集中管理体制を敷いている部分なのである。このことは、脳から見た人体説にしたがって幼児が頭足人型の基本形を形作ることを逆説的に示唆している。その証拠に図20は、トルソとまるで逆の構造特質をもっている。

2.着衣と頭足人型
 幼児の初期の人間画は、なぜ衣服を着ていないのであろうか。Luquet(1927)は、そのことを指摘して、以下のように説明している。少し長くなるが引用してみよう。ゴシックは筆者による。
 「…たいていの子どもたちの人物画を見ると初期にはずっと衣服がついていない。裸体でいるところなど見たこともない大人を描く場合でもそうである。たとえ裸体が子ども自身の経験に基づいているとしても、着衣の方がずっと多いのに、そうした経験が無視されてしまうのはどういう理由によるのだろうか。人間の存在の本質にとって衣服が必要不可欠のものでないことは確かである。しかも衣服は別の本質的要素を隠し、ある意味では取り除いてしまうので、人間を表現する上で邪魔になることさえある。その上、衣服は性別をはっきりさせる上で必要というわけではない。というのは、男性にはパイプを、女性には巻髪を、女の子にはお下げ髪をつけさえすれば十分だからである。しかもたいてい、子どもたちは長期にわたり、女性を表すのにスカートではなく、帽子の羽根飾りを用いる。」(64)
 一読して、この論述には再検討が必要であることが分かる。第1に、Luquetもその提唱者の一員である主知説は、「恒常的・本質的な属性」(65)の印象群の記憶の合体として頭足人型が形成されると主張する。つまり、胴体は人の注意を引かないし、人間の活動に重要ではないから省略されると言う。これは、「衣服が別の本質的要素を隠す」と論理的に整合しない。なぜなら、衣服が隠す本質的な要素とは胴体のことであるからだ。第2に、衣服ほど性別をはっきりさせる上で強力な図像はない。幼稚園の5歳児学級の子供の絵を見れば、一目瞭然である。女子にはスカート、男子にはズボンをはかせれば、それで性別が決まるというのがこの年齢の幼児の絵の相場である。大人も同様で女性用トイレのマークは、ちゃんとスカートをはいている。第3に、頭足人型は世界共通の現象であるが、世界中の民族が「パイプ」と「巻髪」と「お下げ髪」を所有しているわけではない。むしろこれらは、コーカソイド系の民族特有のものである。第4に、「帽子の羽根飾り」は、Luquetの著作の翻訳者も訳注を入れているように「現代日本には通用しない」(66)だけでなく、特定の民族・国家以外には通用しない。第5に、長坂光彦(1977)なども言うように、「人物表現におけるこの初期の形(頭足人)は、洋の東西のもつ衣装や思考、言語の差を越えて共通の姿を示す」(67)というのが、現在の一般的な認識であろう。Luquetの記述は、これらとまったく合致しない。
 それでは、なぜ頭足人型は衣服をつけていないのであろうか。なぜなら、脳から見た人体(図20)が衣服を着ていないからである。脳は、着衣の「体の各部をみたり、感じたり、動かしたり」はしていない。衣服を着た感じと言うのは皮膚感覚の1つで、運動感覚とは違うものである。
 このことは、鬼丸(1981)の記述にも適用できる。つまり彼は、「ある時子供が頭足類の〈顔〉に当たる部分の、下半に色を塗った例が報告されている。子供の言うところでは、それによってその子は衣服を示したのであった。それならばこの〈顔〉はじつは顔ではなく、全身でなければならぬ。そしてこのことは〈頭足類〉の生成と発展の過程に注意するならば、一層明瞭となる」(68)と述べている。しかし彼の記述は、先ほどと同様の理由で誤りである。なぜなら、この子供は脳から見た人体にしたがって頭足人型を描いた直後、人間は服を着ているという視覚的知識と言語的知識に照らし合わせて「下半に色を塗り」、脳から見た人体と現実の人間の通常の姿との競合を調整したのである。すなわち、自己矛盾の調停である。したがって、色塗りによって「衣服を示した」からといって、頭足人型の頭部に見えるところが「全身」を意味することと連動したりはしない。両者は別物で、同値ではない。
 結論としては、脳から見た人体にもとづく身体感覚や内触覚性と視覚的知識・言語的的知識とのせめぎ合いの中で、人間描画がなされ人間表現の表現形式が決定されると言えるだろう。確かに鬼丸の指摘するように、「人間において脳のはたらきは単なる視覚の物理的構造に優先し、常にそれを支配し変容する」(69)が、頭足人型の変遷の最終段階では視覚の支配が進む。

3.脳から見た人体説と動物の頭足人型
 脳から見た人体説の妥当性を吟味する上で、問題となる現象がある。それは、わずかではあるが人間以外の動物の頭足人型が存在することである。筆者の観察した幼児Kは、1歳1カ月6日目にスクリブルを始め、小学校就学までの5年11カ月間に約4200枚の描画活動をしたが、その中に動物の頭足人型は見当たらない。しかし、Arnheim(1954)や長坂(1977)の著作の中には、図23(70)zu23や図24(71)zu24のような動物の頭足人型が報告されている。
 これらの描画作品がその幼児が描いた人間の頭足人型の前に描かれたのか後に描かれたのかによって、現象の説明が異なってくる。つまり、人間の頭足人型の後に描かれたのであれば、人間の頭足人型の表現形式を動物に転用したという説明が可能になる。しかし、人間の頭足人型を描くよりも前に動物の頭足人型を描いたのであれば、幼児は自分の脳が感じている人間の姿に視覚的情報を加味して頭足人型を作り上げるという理論は、根本から見直しを迫られることになる。しかし、筆者はこれまでの観察から、人間の頭足人型を描くよりも前に動物の頭足人型を描くことはないと考える。

4.脳から見た人体説と人間の直立2足歩行
 頭足人型が、鳥や獣などの他の動物画において発生しにくいと考えられるもう1つの可能性がある。それは、人間は直立2足歩行をするという事実である。頭足人型の発生に人間の直立2足歩行が大きく関わっているのであれば、頭足人型が人間画において頻発するのも説明がつくし、動物画において起こりにくいことも納得ができる。しかし、直立2足歩行の動物が人間に限られているので、このことは比較によって確かめることができない。
 また、図2・12のような頭足人型の初期構造には、脳から見た人体説に基づいて描かれるべき腕が欠如している。なぜそういうことが起きるのかという疑問が、必然的に生じる。このことに関しては、直立2足歩行の身体感覚と内触覚性が、円の下に2本の縦線があるような「頭-脚」構造の頭足人型の生成の契機になっているのだという説明が可能である。もう1つは、先天的記憶としての「頭-脚」構造のような図形や直立2足歩行の身体感覚などを人類の記憶として所持しているという説明である。これらが、脳から見た人体以上に描画欲求を刺激しているからだと言えないことはない。したがって、図2・12のような頭足人型の説明に、人類固有の2足歩行を適用することの妥当性は否定できない。
 しかし、幼児Kの観察結果から以下のようなことが言える。つまりKは、就学までの幼児期に189枚の人間画を描き、その内62枚が頭足人型であった。62枚の内、脚を描き入れているのは25枚で、発生率40.3%である。これに対して、腕は40枚に描き込まれ、発生率64.5%である。冒頭で紹介した頭足人型に関するこれまでの用語は「頭」と「足」を中心に命名されたものばかりであるが、Kの事例で見る範囲では脚よりも腕のほうが頻繁に描かれている。しかも、「頭-脚」構造としての頭足人型は、発生期間の前半にほとんど確認できないが、「頭-腕」構造の頭足人型は、期間全体を通じて発生している。これら一連の事実は、図20に示す脳から見た人体において脚・足よりも腕・手の方が大きいことと一致する。結論として、頭足人型と言いながらも実際には、脳から見た人体に従って腕を描き込んだ頭腕人型の方が多いのではないかと考える。

Z.頭足人型の総括的考察

1.R.Kelloggの功績
 Kellogg(1969)の最大の功績は、幼児の描画活動をそのまま受け入れようとしたところである。Read(1942)以前の研究では、幼児を未熟な存在として捉えているのが「無知」、「無関心」、「できない」などの記述用語から感じられる。しかし、頭足人型という不可思議で神秘的な人間表現に対して未完成、未成熟、不完了、不完全などの用語はやはり不適切である。したがって、Kelloggの「これらの絵の抽象的内容を反映するような美的用語を使用したい。適当なそういう用語がない」(72)という意見は支持されるべきであろう。頭足人型は、幼児の「粗雑な、未熟な、たどたどしい作品ではなく」(73)、1つの造形表現としてその本質と構造に迫るべきである。

2.頭足人型の変異性と個性
 特定幼児の事例をもとに考察した結果、幼児の描く頭足人型は、頭・胴・脚・腕の組み合わせによる構造特質から8タイプに類型化できる。さらに、それらが分化しているものと未分化なものとによって最終的には16バリエーションが考えられる。しかもそれらは、前後の脈絡がほとんどないように思える出現の仕方をする場合がある。それは、人間を主題にした描画活動に対して表現欲求が生じた時、何を中心に人間描画するのかそれに何を参与させて作画するのかによって、結果としての人間画に多様性ができるからである。
 例えば、脳から見た人体によって描いた頭足人型を基盤に言語的知識と視覚的知識を動員して人間描画したり、視覚的知識と言語的知識だけで描いたりもするであろう。さらに、幼児は写生もする。結局、描画欲求が先天的な記憶を中心とするのか、大脳の新皮質の後天的なものを中心とするかによって、それらの含有率・占有率がそのつど変わると考えられる。これが頭足人型の研究を複雑なものにしている大きな原因であると考えられる。頭足人型はなぜあのような不可思議な形態で描かれるのか、という問いに明確に答えていない研究が多いのは、この認識が欠如しているからである。

[.頭足人型における縦断的事例研究の必要性と脳から見た人体説

 筆者の論述の大きな根拠の1つは、幼児Kが就学するまでの5年間に、全く強制力のない自発・自由画で描画した約4200枚の描画作品と、まだ未整理の部分はあるが幼児Yの約1000枚の描画作品である。調査継続中の幼児が他にも何人かいるが、正確なデータとして使用できるのは、まだわずか2例である。事例研究は、単なる事例であるので当てにならないという意見もあるが、事例の集積から一般的な法則を導き出す帰納的な手法が幼児教育研究においては不可欠である。シモーヌを観察したLuquetの研究、マーガレットを観察したEngの研究などがそうである。彼らのすべての記述がそうだというわけではないが、その記述の多くの部分が真実を含んでいると思われるのは、ケース・スタディー特有の具体的事実にもとづいた実証性が根幹にあるからである。
 幼稚園・保育所などをデータ収集の場とする横断的研究は、やり方さえ誤らねばそれなりの成果が得られるだろう。最も大切なことは、幼児の描画活動を研究するのであれば、自発・自由画を収集せねばならないという点である。Luquetは、「学校で描くのは、〈自由画〉などという美名で粉飾してみても、完全に自発的な絵に比べれば子どもにとって魅力に欠けるものとならざるを得ないし、必然的に注意力もその影響をこうむることになるからである」(74)と述べて、学校で描く図画に対してでさえ批判的である。時間、場所、課題、材料などを設定、指定、規定されて描かされた描画にどれだけの価値があるだろう。実験室的な描画からは、学術的に得られるものが少ないと考える。
 幼児の描画行為は、図21・22の例に示したように非常に短い時間に変容することがあるの。したがって、Kelloggやその他多くの著作にあるように、いつ誰が描画したのかについての記述が「3歳男児」や「4歳2カ月」程度では、研究がどうしても緻密さと精度を欠くと考える。たった1つの事例でもよいから正確で緻密なデータをもとに研究を進める方が誤りが少ない。最も危険なのは、不正確な断片的データの集積をもとに論を組み立てることである。先行研究を概観して、受け入れがたい見解や記述というのは、必ずと言っていいほど科学的な実証性のない類推か、経験に基づく確信である。経験・体験の記憶は、頭脳の中で変化、変質、変容する。しかも通常は、本人に都合のいいようにそうなる。重要なことは、自分自身が緻密なデータを収集し、その上に立脚してすべての推察と論述をすることである。
 筆者の表明する脳から見た人体説によって頭足人型を説明するアイデアは、幼児の描画活動と大脳生理学という異質のパズルのピース2つが見事に一致したように見える。そして、先行研究が抱えてきた矛盾を解決できるように思える。しかし、あくまでも一連の具体的事実にもとづいた仮説である。したがって当然のことながら、事例研究の積み重ねと大脳生理学における科学的実証性のある実験によって、時間をかけて吟味・検討・批判されねばならないだろう。


(1)Luquet,G.H.(1935):Le Dessin Enfantin,Nouvelle edition.(p.55).Paris, Librairie Felix alcan.(須賀哲夫/訳:『子どもの絵』,金子書房,1979年.)原著刊行1927年.
(2)Luquet・前掲訳書(1),p.66.
(3)Eng,H.(1966):The Psychology of Chi-ldren's Drawing: From the First Stroke to the Coloured Drawing.(p.60).London, Routledge & Kegan Paul.(深田尚彦/訳:『児童の描画心理学』,ナカニシヤ出版,1983年.)原著独語版刊行1927年,英訳書初版1931年.
(4)Eng・前掲訳書(3),p.15.
(5)Arnheim,R.(1954): Art and Visual Perception:a Psychology of the Creative Eye.(p.157).The Regents of The Universi-ty of California.(波多野完治・関計夫/訳:『美術と視覚』(上),美術出版社,1963年.)
(6)Arnheim・前掲訳書(5),p.245.
(7)Wallon,P.,Cambier,A.,Engelhart,D.(1990):Le Dessin de L'enfant.Presses Uni- versitaires de France.(加藤義信・日下正一/訳:『子どもの絵の心理学』,名古屋大学出版会,1995年.)
(8)Cambier・前掲訳書(7),p.59.
(9)園田正治:『子どもの絵と大脳のはたらき』,p.90,黎明書房,1976年.
(10)Eng,op.cit.,p.10.
(11)Eng・前掲訳書(3),p.15.
(12)Eng,op.cit.,p.110.
(13)Eng・前掲訳書(3),p.110.
(14)Read,H.(1943): Education Through Art.(p.124).London,Pearn,Pollinger and Higham.(植村鷹千代・水沢孝策/訳:『芸術による教育』,美術出版社,1953年.)
(15)Read・前掲訳書(14),p.144.
(16)Grozinger,W.(1955): Scribbling, Drawing, and Painting.(p.40). New york, Frederick A.Praeger,Inc.以下Grozinger, Scribblingと略す。
(17)Grozinger,W.(1952):Kinder KritzelnZeichnen Malen:Die Fruhformen kindlichenGestaltens.Prestel-Verlag Munchen.以下 Grozinger,Kritzelnと略す。(鬼丸吉弘/訳:『なぐり描きの発達過程』,p.85,黎明書房,1970年.)
(18)Arnheim,op.cit.,p.157.
(19)Arnheim・前掲訳書(5),p.245.
(20)Brittain,W.L.(1979):Creativity,art,and the young child.(p.36).New York,Mac-millan Publishing Company,Inc.(黒川建一/監訳『幼児の造形と創造性』,黎明書房,1983年.)
(21)Brittain・前掲訳書(20),p.48.
(22)Brittain,op.cit.,p.36.
(23)Brittain・前掲訳書(20),p.48.
(24)Ricci,C.(1887):L'art dei bambini. Bologna,Leipzig.Cf.M.V.Cox(1993):Chi-ldren's Drawings of the Human Figure.(p.25).East Sussex,Lawrence Erlbaum Associ-ates Ltd.
(25)Kellogg,R.(1969): Analyzing Cild- ren's Art.(p.202).Palo Alto, California,National Press Books.(深田尚彦/訳:『児童画の発達過程』,p.208,黎明書房,1971年.)
(26)Brittain,op.cit.,p.36,前掲訳書(20),p.48..
(27)平井富雄:『脳と心』,p.85,中央公論社,1983年.
(28)Pribram,K.H.(1971): Languages of the Brain; Experimental Paradoxes and Principles in neuropsychology.(p.370). Englewood Cliffs, New jersey, Prentice- hall,Inc.(岩原信九郎・酒井誠/訳:『脳の言語―実験上のパラドックスと神経心理学の原理』,p.380,誠信書房,1978年.)
(29)竹本忠雄・伊東俊太郎・池見酉次郎/編:『ニューサイエンスと東洋―橋を架ける人々』,p.81,誠信書房,1987年.
(30)Wallon,H.(1954): Kinesthesie et imagevisuelle du corps propre chez l'en-fant.Bulletin de Psychologie,tome Z.(浜田寿美男/訳:『身体・自我・社会』,pp.190-191,ミネルヴァ書房,1983年.)
(31)Lowenfeld,V.(1957): Creative and Mental Growth,3rd Edition.(p.109).London,The Macmillan Company,Collier-Macmillan Limited.(竹内清・堀内敏・武井勝雄/訳:『美術による人間形成』,p.156,黎明書房,1963年.)原著刊行1947年.
(32)Eng,op.cit.,p.135.
(33)Eng・前掲訳書(3),p.128.
(34)Arnheim,op.cit.,p.128,前掲訳書(5),p.207.
(35)鬼丸吉弘:『児童画のロゴス』,p.80,勁草書房,1981年.
(36)鬼丸・前掲著(35),p.84.人名を欧語にして、武井勝雄が1973年に調査した「主要な児童画研究者」と鬼丸の掲げた「文献目録」を参照してそれぞれの主著の年代を付した。
(37)安西祐一郎・市川伸一・外山敬介・川人光男・橋田浩一:『岩波講座 認知科学2 脳と心のモデル』,p.11,岩波書店,1994年.
(38)安西祐一郎/他・前掲著(37),p.11.
(39)Arnheim,op.cit.,p.128,前掲訳書(5),p.207.
(40)Read,op.cit.,pp.122-123,前掲訳書(14),pp.141-142.
(41)Grozinger,Kritzeln,p.39,前掲訳書(17),p.40.
(42)長坂光彦:『幼児教育選書・領域篇 絵画製作・造形』,p.62,川島書店,1977年.
(43)鬼丸・前掲著(35),p.32.
(44)Read,op.cit.,p.154,前掲訳書(14),p.178.
(45)Grozinger,Scribbling,pp.39-41,前掲訳書(17),pp.41-42.
(46)Osterrieth,P. & Cambier,A.(1976): Les deux personages. Bruxelles, Editest,Paris,PUF.
(47)Eng,op.cit.,p.143,前掲訳書(3),p.141.
(48)Lowenfeld,op.cit.,p.110,前掲訳書(31),p.156.
(49)Arnheim,op.cit.,p.158,前掲訳書(5),p.246.
(50)Eng,op.cit.,p.127,前掲訳書(3),p.126.
(51)Eng,op.cit.,p.129,前掲訳書(3),p.128.
(52)Eng,op.cit.,p.71,前掲訳書(3),p.62の次の色彩図版,p.75-76.
(53)三田村S右:『美術からアートへ』,p.189,鳳山社,1992年.
(54)時実利彦:『脳の生理学』,p.168,朝倉書店,1966年.
(55)時実利彦:『脳の話』,p.80,岩波新書,1962年.
(56)時実利彦:『脳と人間』,p.171,雷鳥社,1968年.
(57)Penfield,W. & Roberts,L.(1959): Speech and Brain-Mechanisms.(p.27).Prin-ceton, Princeton University Press.(上村忠雄・前田利男/訳:『言語と大脳』,p.26,誠信書房,1965年.)
(58)Penfield,W. & Jasper,H.H.(1954): Epilepsy and the Functional Anatomy of the Human Brain.Boston,Little,Brown and Co.,896pp.
(59)Penfield & Roberts,op.cit.,pp.27-28.
(60)時実・前掲著(55),p.90.
(61)丸善:『丸善エンサイクロペディア大百科』,p.27,丸善,1995年.
(62)丸善・前掲著(61),p.27.
(63)Arnheim,op.cit.,p.129,前掲訳書(5),p.208.
(64)Luquet,op.cit.,p.99・前掲訳書(1),p.109.
(65)Buhler,K.(1949):Abriss der geisti-gen Entwicklung des Kindes. Heidelberg, Quelle & Meyer Co.,Inc.(古武弥正/訳:『精神発達』,牧書店,p.134,1958年.)原著刊行1919年.Cf.Buhler,K.(1933): The Mental Development of the child; A Summary of Modern Psychological Theory.(p.115).Lon-don,Kegan Paul,Trench,Trubner & Co.Ltd.英語版刊行1930年.
(66)Luquet・前掲訳書(1),p.110.
(67)長坂・前掲著(42),pp.62-63.
(68)鬼丸・前掲著(35),p.34.
(69)鬼丸・前掲著(35),p.89.
(70)Arnheim・前掲訳書(5),p.232.
(71)森上史郎・大場幸夫・高野陽・秋山和夫/編:『最新 保育用語辞典』,p.197,ミネルヴァ 書房,1989年.
(72)Kellogg,op.cit.,p.97・前掲訳書(25),p.104.
(73)Kellogg,op.cit.,p.108,前掲訳書(25),p.115.
(74)Luquet,op.cit.,p.135,前掲著(1),pp.147-148.

謝辞
 本研究の執筆に際し、筑波大学教授・三田村S右先生からW.Penfield(1959)の大脳皮質局在論とK.H.Pribram(1971)の大脳ホログラム理論について貴重な御助言を頂きました。ここに記して感謝の意を表します。


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