※2017年度子から親へのエール論文(全作品:入力継続中)

 作品は、高校生と大学生(専門学校生含む)の2つの部門に分かれて応募されていますが、入力の都合上、大学生の作品から入力しています。掲載順も入力順となっています。ひとまずこれでご容赦ください。

★大07:「祖母と暮らしたこと」

 認知症の祖母の面倒を見ていたのは、主に母だった。私の母は専業主婦で、父と兄と私が仕事や学校へ行っている間、母は祖母と二人だった。当時は当たり前のように思っていたが、今考えると母は相当大変だったと思う。毎朝早起きして3人分の弁当を作り、掃除や洗濯をしながら祖母の面倒も見なければならないのだ。母は毎日そんな生活をしていたというのに、私は母が弱音を吐いたところは一度も見たことがなかった。思い出すのは、祖母に優しく声をかけながら笑顔で接する母の姿だけ。
私が幼稚園に通っていたころには、既に祖母は同居していたと思う。私は正直、祖母のことが苦手だった。認知症を患っていた祖母は、同じことを何回も繰り返し言ったり、訳のわからない言動をしたりすることがあり、私はそんな祖母のことを怖いと思っていたし、祖母の相手をすることを煩わしく思ってもいた。当時私は、何度も同じことを話す祖母に「さっきも聞いた」と強い口調で言ったり、なるべくかかわらないように避けたりと相当酷い態度で接していた。そんな時、母から言われた「お兄ちゃんはおばあちゃんに優しくしてあげられているのに、どうしてあなたはできないの」という言葉を今でも覚えている。この言葉を聞いたとき、私はとても悔しくて悲しい気持ちになった。兄と比べられることも辛かったし、母は私の気持ちを分かってくれていないと感じたからだ。
祖母の認知症が進行するにつれて、もともと持っていた病気も悪化し、祖母は入院することになった。祖母が家にいた頃には気持ちが落ち着かず、何かとイライラしていた私も、祖母が入院してからはだんだん落ち着き、家族と一緒に度々病院へ通うようになった。
しかし、祖母の病気が悪化しているのは明らかだった。細かった祖母はさらに痩せたようで、発する言葉も弱々しくなっていった。ベッドに横たわって呼吸器をつけている祖母に、母が変わらず優しく何度も声をかけていたことを覚えている。
祖母が亡くなったのは、私が中学二年生の時だった。土曜の朝、起きてきた私に「おばあちゃんが亡くなった」と母が静かに告げた。母にそう言われても実感が湧かず、私は明後日に葬式をするから、という話をただ聞いているだけだった。
葬儀当日、正面に置いてある祖母の遺影を見た途端、私は急に悲しい気持ちでいっぱいになった。その時、母から言われた「お兄ちゃんはおばあちゃんに優しくしてあげられているのに、どうしてあなたはできないの」という言葉が頭に浮かんだと同時に「どうして優しくできなかったんだろう」「何もしてあげられなかった」と様々な思いが次々に浮かんできて、私はついに泣き出してしまった。
祖母の死をきっかけに、私は周りの人の思いを気にするようになった。当時は辛かった母の言葉も、私に兄をお手本にして祖母に優しく接してほしいという思いもあったのだと思うし、態度には出さなかったが祖母の介護で母も相当参っていたのだと理解できるようになった。
そこで、普段家にいるからといって母にばかり家事や介護を任せすぎていたと感じた。父や兄、私が家事や介護を協力して手伝えば、母はもっと楽をできたのではないかと思う。母は専業主婦で、私が学校から帰ったらいつも家で待っていてくれる。それだけのことにすごく安心できていたんだなと改めて思った。いつもは言えないけど私はそんな母を尊敬している。いつも笑顔で優しく言葉をかけてくれるあなたのことが大好きです。ありがとう。


★大21:母親

私が六歳の頃、母は一人っ子の私を連れて実家に帰りました。「いつかお父さんと、必ず暮らせるからね。」「ごめんね、寂しい思いをさせて。」それが母の口癖でした。桜が綺麗に咲いた四月、私は全く知らない人達の中に入り入学式を迎えました。田舎だったために、私以外の全員は保育園からの友達だったので、私はみんなにとって異物に見えたのか、長く続くいじめが始まりました。看護師の母は、毎日一生懸命女一人で育てるため仕事に励んでいました。私はそんな母の姿を見て、子どもながらに心配をかけてはいけないと感じ、自分の気持ちを塞ぎ込み母の言いつけを必ず守っていました。しかし何年かたち日に日に辛くなるいじめに耐えられず、ついに母に打ち明けたときの母の顔は今でも忘れません。母は私を責めずに静かに「転校してもいいんだよ。」と言いました。寂しそうな横顔を見て、絶対負けられないと感じ転校せずに必死に耐え、中学校に入学したのですが、そこから気を張っていた線が切れ、私が不登校となってしまいました。毎日母に腕を引っ張られ、今日は行くか、今日は行くかと泣きながら怒られました。大喧嘩は数え切れない程。毎日家の中が母の怒鳴り声と、私の泣き叫ぶ声でいっぱいでした。高校受験では、気持ちを入れ替えるため私立の高校を受験し、無事合格して入学することができ、母子家庭にはとても簡単に出せないような多額な額を払ってもらい、私は高校に通いました。その頃から喧嘩は少なくなっていったのですが、高校一年生の夏休み、母に新しく恋人がいることを知りました。「いつかお父さんと、必ず暮らせるからね。」その言葉を信じていたのに。私は激しい怒りを感じました。裏切られ、後頭部を鈍器で殴られた感覚でした。そこからまた私は不登校になり、ついに高校を辞めてしまいました。あんなにお金を払ってもらい、何度も頭を下げてもらい、毎日昼間は不安になる心を抑えながら必死に働いていた母の気持ちに気付かず、当時の私はこれが正しいと勘違いしていました。今、私は一人暮らしをしています。また高額な学費や生活費を払ってもらいながら生活しています。毎日洗濯物をして、仕事をして、夕飯を作って、アイロンをして、そんな母の生活を、私は母親なんだから当たり前だと思っていました。たまの休みに私が学校から帰ると、母が寝ているときがあったのですが、それがとても嫌でした。今だからわかります。その生活がどれ程大変なものか。夕飯が少しでも気に食わなかったら「これ食べたくない」と文句を言いました。服にシワがあったら「ちゃんとアイロンしといてよ」と服を投げつけました。着たい服が洗濯中だと「これが着たいのになんで今洗濯するの?」と怒鳴りつけました。毎日違うメニューを考えて作ることは大変だし、全ての服を丁寧にアイロンする時間なんてないのです。仕事で走り回り、クタクタに疲れた母にはもっと大変だったと思います。母も職場でいじめられていたことを最近知りました。私を支えるためいじめに耐え続けていた母に、私は酷い態度を何年も取り続けました。何回も裏切ってきました。今頃母の素晴らしさ、ありがたさを感じています。何度も職場を変わってきた母ですが、いじめがなかったところや問題がなかったところは皆無だったそうです。職場も職業も沢山選択肢があります。母はその中から自分に合ったものを選んでいたら、辛い思いをする機会が少なかったかもしれません。しかし、誇りをもち看護師を続ける母の姿を見ると、母の選択も間違いではないのかもしれません。優しく見守り、支えてくれた母を私は自慢に思っています。


★大03:あなた

 「子の幸せが自分の幸せ」と言っていたあなたに『不幸になれ』と言われたあの時、冗談でも私は傷つきました。しかし、裏を返せば、私は幸せだということに気付きました。
 振り返れば、私は未知への挑戦をして生きてきました。幼い頃は好奇心と勢いだけで様々なことに挑戦していました。その中の1つが、中学3年生の冬、高校受験を控えているにも関わらず「ホームステイをしてみたい」と軽い気持ちで言葉にしたことです。
 私は、英語が嫌いでした。その上、パスポートを持ってないのに準備期間が短かったため、どうせ「だめだ」と言われると思っていました。しかし、あなたたちの返事は真逆でした。
 ホームステイが決まったものの、初めての海外に戸惑い、コミュニケーションの取り方に自信がなく、しかも知り合いがいない環境で過ごすのは、とても不安でした。正直「ホームステイをしてみたい」と言ったことを後悔しました。しかし、あなたたちが私の言葉を実現させるために費やした時間と労力とお金を考えると、不安で怖くても、与えられた有難い機会を逃すという選択肢は、私にはありませんでした。
 今となって、「初めて海外に娘を送り出すあなたたちは、どんな気持ちだったのだろう」と考えることがあります。今の私には理解できないけれど、いつか私の子が同じように「ホームステイをしたい」と言葉にしたら、私は、あなたたちのように全力で支援をすると思います。例え、その言葉が私のように意図のない好奇心だけで紡ぎ合わされた言葉だとしても、なかなか得られない貴重な経験になると私は体感したからです。
 ホームステイがきっかけで、高校では留学、大学では有志の語学研修、大学院では国際インターンシップを希望しました。語学研修まではあなたたちの支援を受けましたが、国際インターンシップはあなたたちに負担をかけることなく挑戦し終えました。国際インターンシップに参加したことによって、挑戦するときには準備と覚悟が必要だということ、たとえ海外へ行っても、私はあなたたちに見守られていたこと、そして、あなたたちからの期待が私の心と体を動かしていたことに気付きました。思い通りにできなくて何度もやめたいと思った習い事も、自分が納得するまで続けることができたのは、あなたたちの期待に応えたかったからです。思い返せば、あなたたちは失敗したときに叱るのではなく、目標に向けて努力を怠ったときに叱ってくれていました。叱ることは簡単なことではないと今なら分かります。本当に感謝しています。
 私はこれからも挑戦し続けます。今までの挑戦に後悔はありません。ただ、反省すべき点はたくさんあります。この反省を活かして全力で新たな挑戦をします。その新たな挑戦には、あなたたちが必要不可欠です。だから、長生きをしてください。
 今年度で定年退職のあなた。あなたのおかげで、来年から社会人の私は、経済的にも新たな挑戦への準備ができました。そして障害者のあなた。あなたのおかげで、この新しい挑戦への覚悟ができました。これからは、私があなたたちを支えます。そして些細な幸せを感じてほしいです。これが、私の新たな挑戦「親孝行」です。
 あなたたち二人は不仲で、今後、家族全員で集まることはないでしょう。それでも、それぞれにあなたらしい生活が送れるなら、離れ離れで生活をすることは間違いではないと思います。「あのころに戻りたい」とは思いません。過去に戻ったとしても私は同じ選択をするでしょう。なぜなら、昔から私はあなたたちに愛されている中で、全力を尽くして生きてきたという事実を変えたくないからです。
 挑戦していく中で成長し、私は感謝に気付ける人になりました。感謝は「有難いこと」であり、当たり前だと思っていることも実は「有難いこと」であると気づけたのも、あなたたちのおかげです。有ることが難しいということは奇跡に似ています。その奇跡に気付けることが、今の私にとっては幸せなことです。
 あなたに『不幸になれ』と言われたとき、“あなたから見た私”は『幸せ』だと気づきました。あなたが以前に言っていた、「子の幸せが自分の幸せ」が本当ならば、「不幸になれ」と言われた私は、きっとあなたを幸せにできていたのでしょう。
 『生まれてよかった』と最期をむかえ、『生まれてきてくれて有難う』とあなたたちに想われるような誇らしい人に、私はなりたいです。あなたたちのために。


★大02:母の姿を見て

大学生になり、下宿暮らしを始めて3年が経ち、身の回りのことを全て自分で行うことにも慣れてきた今、改めて母の存在の有難さや母の凄さを実感する。
私の家は姉と私と双子の妹の三人の娘と、父、母、祖父母の七人家族である。祖母以外は皆働いており、小さい頃家のことはほぼ祖母が行っていたように記憶している。
幼児園に通っていた私たち三人は、朝母の仕事に行く車に乗り登園し、帰りは園の近くのバス停からバスに乗って帰っていた。当時はバスに乗れる楽しさと、友達が迎えに来たお母さんに連れられて帰っていく姿を羨ましく思う気持ちとの複雑な感情を抱いていたことをよく覚えている。双子だったこともあり、一人で待つことはなかったため、複雑な気持ちになりながらもそれなりに楽しい幼少期を過ごすことができたと思う。高校卒業後、就職した母は父と出会い、それから一時職からは離れたが、私が幼児園に入る頃には職に就き、それからずっと仕事を続けている。専業主婦をしていたり、仕事が比較的早く終わったりする友達のお母さんを、いいなと思ったことは何回もある。私の家は祖母が家事をこなしてくれており、感謝はしていたが、子ども心に少し寂しさも感じていた。朝早くから仕事に行き、夜遅くまで仕事をしている母をすごいと思う気持ちと、もう少し早く帰ってきて、一緒に今日あった話をしたい、一緒に過ごしたいという気持ちと両方持っていた。
それから十数年が経った現在も、母は仕事を続けている。姉は私立大学に入学し、妹も県外の国立で下宿暮らしをしている。私も県内の大学に入学したものの、下宿暮らしのため、生活費・学費を工面してもらっている状況である。今では、幼い頃、母の存在を恋しく感じていたが、その恋しいと思っている中母は必死に仕事をこなし、私たち娘の将来のために頑張ってくれていたと感じることができる。私が今、こうして好きなこと、学びたいことを学べ、充実した学生生活を送ることができるのも、あの頃からの母の頑張りがあったからだと心から思える。
そんな頑張ってくれている母だが、正規雇用ではなく、非正規雇用として働いている。そのため、収入は高いほうではなく、三人の娘を大学に通わせるために奨学金も借りながらやりくりをしている。毎日一生懸命働いても、同じ時間働いた正社員よりも給料は低いのである。朝早くに起きて仕事へ行き、家族の中で一番最後に帰宅する母の頑張りは、本当に正社員よりも劣っているのだろうか。同じだけ働いているのにも関わらず、給料に差が出るのはおかしいのではないだろうか。今も毎日汗を流して働いている母の背中を見て、改めて新しい社会の仕組みが必要だと強く思う。
最後に、今も私たち娘のために毎日汗水流して頑張る母には本当に感謝している。私が今思う存分学生生活を楽しめ、勉学に励むことができているのも、母の日々の努力のおかげなのである。そんな母の背中から、自分が今後社会に出た際の働き方、自分が置かれる社会のあり方について、真剣に考えていかなければならないと強く感じている。私が将来結婚し、家庭をもった際、母のように強く逞しい背中を見せていけるようにしたい。私の最も尊敬できる人は母だと、胸を張って言える。そんな母をもって、私は本当に幸せだと思う。これから時間はかかるかもしれないが、少しずつ恩返しをしていきたいと思う。


★大11:「母の教育方法」

 私は、共働きの両親、高校生の弟がいる。父は単身赴任で県外にいるため、家の中心は母である。他の家庭の教育がどのように行われているのかはわからないが、私の母の教育は変わっていると思う。私が母親という立場に将来なるときに、母の教育の仕方は絶対に真似したくない、と感じている。反面教師だと思っていた。具体的になにが変わっているのかと言うと、例えば、私の私物は家の中でよく紛失する。リビングに置いたのに、洗面所に置いていたのに、自分で確かに置いたはずのものがない。母に尋ねると、「置きっ放しにしていたから捨てたよ。」が決まって返ってくる言葉だ。なぜ自分の家の中で、置いてはいけない場所に置いているわけでもないものを、母に勝手に捨てられなければならないのか、全く理解できない。母に理由を尋ねると、「ここはあなたの部屋じゃない。自分のものは自分の部屋に置きなさい。」だそうだ。母の言っていることに間違いがあるとは思わない。しかし、そのやり方が正しいとも思わない。自分の部屋じゃない場所に置いてあるのを見たら、「自分の部屋に置きなさい。」と声をかけるだけではいけないのか。さらに驚くのが、母は捨てたと言っても本当に捨てていたことは今まで一度もない。どこかに隠してあるのだ。それは私には絶対に見つけられないところだ。今まで何度も自力で見つけようと試みたが見つけられたことはない。じゃあその隠された物たちはどうなるのか、返してもらう方法がある。お金である。過去に私が払った最高額は二万円である。母は返して欲しければ、お金を払えという条件を出してくる。私が二万円払って返してもらった物は、ヘアアイロンである。正直ヘアアイロンを二万円払って返してもらうのであれば、買った方が値段的には安い。しかし私にはそれはできなかった。叔父に誕生日プレゼントとして買ってもらったものだからだ。お金に変えられないという体験を身をもってした。母がこれを私が感じることを目的としていたかはわからない。しかしこの体験のおかげで自分の持っているものを大切にしようという気持ちはより深まった。お金を使う必要があったかと疑問に思うが、私のことを一番よく知っているであろう母からしたら、一番有効な手段と考えたのかもしれない。新しいもの好きで、買ってもすぐになくしたり、捨てたりすることをよく指摘されていた。もう一つ驚く教育方法がある。私が高校二年生のときに母は急に弁当を作ってくれなくなった。原因は私が弁当の文句を言ったからである。その時は文句を言ってしまったことに後悔したが、自分の力でどうにかしようと思い、自分で弁当を作るようになった。高校生の時にお小遣いというものがほとんどなく、節約のため、自分のために、全く料理をする習慣がない中で作り始めた。弁当を作る時間を考えて朝早く起きることは本当に苦痛であった。もう昼食は食べなくてもいいかなと考えるほどであった。でも、空腹にも耐えられず、お金もなく、何より母に負けたくないという気持ちからお弁当を作り続けた。そして今大学4年生になり、もちろん母が弁当を作ることはない。大学生になってアルバイトを始め、少し自分のために使うお金の余裕ができ、お弁当を毎日作ることはなくなった。しかし、お弁当を毎日作る大変さ、早起きをすることの辛さは今でも忘れていない。だからこそ、家事を進んでするようになった。大学生になり時間に余裕が出来たときに、朝から家事をして、仕事に行き、帰ってきても家事に追われる母の大変さを、今まで当たり前に過ごしてきたとは思えないくらい、感じた。
 このように母はいつも口であれこれ言うわけでもなく、黙って私を追い詰める。でもそれが今の私にプラスになっていることは間違いない。言葉なんてすぐ口に出せる、しかし行動で示すには時間も労力もいる。それだけ行動で示すことは言葉よりも説得力、信頼、安心感が伝わるものだと思う。母の気持ちが理解できなかった頃は、母への感謝の気持ちはなかなか持てなかったが、今は母のおかげで、いろんな経験を通して少しでも自分は成長出来たと感じられるようになり、本当に感謝している。でも私は決して直接母への感謝の気持ちは口にしない。母がしてくれたように、私もこれからも行動でエールを送りたい。


★大01:「保育士と子育て」

「保育士はとても楽しい仕事よ」
私は幼いころから母がよくそう言っているのを耳にしている。私の母は短大を出てから保育園で働いていた。当時の話を本当にうれしそうに話す母の姿を見て、私も将来子どもの育ちに携わる仕事に就きたいと思い、今、保育について大学で勉強をしている。母は、保育の現場を離れたのはヘルニアで腰を痛めてしまったからだと言っていた。しかし、母が保育の現場を離れた理由を詳しく聞いたのは最近のことである。

私と兄の子育てをしながら働いていた母は保育士として仕事にもやりがいを感じながら働いていた。保護者とも友好な関係を築き、子どもたちからも人気の先生だったそうだ。母の働いていた保育園では延長保育などもあり、保育士をしながら子育てをするのは簡単なことではなかったけれど私たちが何より大事だから頑張っていたと言っていた。当時の父は出張が多く、平日は家に帰らず週末に帰ってくるという生活を送っていた。このことからも母にかかる子育ての負担は非常に大きかったと思う。

幼い私と兄は保育園へ預けられていた。ある日、兄が保育園で少し大きな怪我をしたとき人手に余裕がなく、病院に連れて行ってもらえなかったらしい。そのとき、母は「私は保育園で担当している子どもたちにどんなに良い保育ができたとしても、自分の子どもが痛くて泣いてるときに助けてあげられないなんて自分は何をしているんだ」ととても悲しい気持ちになったそうだ。保育士は保育をすることを専門とする仕事であるため、自分の子どもを保育園に預けて自分は保育園で他人の子どもを保育しているという気持ちをどうしても抱いてしまうと言っていた。そういったことと保育士と子育ての両立の困難さが理由でとても悩んだ末、母は大好きな保育の現場を離れたそうだ。

今日の社会では女性の社会進出がどんどん増えてきており、共働きで子育てをしている家庭も多い。しかし、子育ては家庭や地域みんなで行うものだという風潮が重視されているものの、性別役割分業を組み込んだ社会制度や意識は消え去っていない。日本における父親の子育て参加は非常に短く、母親への子育て負担が大きくなっている。これらをふまえると、女性が子育てをしながら仕事を継続するための環境は完全に整っているわけではないように思う。そのうえ、保育士は圧倒的に女性が多い現状である。子育てをしながら働く保育士は、保育士でありながら母親である。保育士は保育だけでなく、保護者に対する支援及び地域の子育て家庭に対する支援等を行う役割を担っている。保育士は子どもの育ちに関する知識はもちろん豊富であると思うが、保育士自身の子育てへの支援も大切だと思う。共働き家庭の子育てを支援する保育士自身の子育てが保証されることが今日の社会を支えることにつながると思う。

最後に、どんなことがあってもいつも笑顔で明るいお母さん、仕事が大変なときでも弱音を吐かずに頑張って仕事へ行ってくれているお父さん、私と兄をここまで愛情深く育ててくれてありがとう。学びたいことを学ぶために大学まで行かせてくれてありがとう。私も2人が築き上げてくれたような家庭を将来築きたいな。これからは、私たちが社会人になって感謝の気持ちをもって恩返ししていくね。体に気をつけて無理せず、これからも仕事頑張ってね。


★大34:「強い母」

私のお母さんは強い。よく「女は一歩さがって男を立てる」というが、小学生の頃の私はそれはドラマの中の話か、もしくは遠い昔の話かと思っていた。
具体的にどう強いかというと、まず家族の中での立場が強い。我が家では昔から何事もお母さんの許可を得ないといけない。お父さんが賛成していても、お母さんが反対していたら諦めなければいけない。
次に、体が強い。お母さんが風邪をひいているのをこの5年間くらい一度も見ていない気がする。体力と筋力も私より断然ある。私のお父さんは一切家事をしないので、全ての家事をお母さんがする。大学生になって手伝いをするようになってから、やっと家事にはものすごく体力と筋力が必要であることに気が付いた。しかも、そんな家事全てを朝早くに起きて済ましてから仕事に行くので驚きだ。
そして最後に、心が強い。何かに感動して泣いているところは見たことがあっても、自分のことで泣いているのは見たことがなかった。また、仕事も男の人と同じ量の仕事をこなしているそうだ。男の人と対等な立場で仕事をするのは、メンタルが相当強くないとできないことだと思う。 小学生の頃の私にとって、お母さんは弱みが無く、いつ頼っても、わがままを言っても大丈夫な、まるで人間離れしたスーパーヒーローのようだった。
そんなお母さんも、一人の人間であるという当たり前のことに気が付いたのは、私が中学2年生の時だった。お母さんは、片耳が聞こえなくなった。ストレスが原因の突発性難聴というものであった。ストレスの原因は、職場での人間関係であると言っていた。意地の悪い上司に、意地の悪いことを言われていたらしい。それだけでなく、私自身も原因の一つであると確信している。その頃の私といえば、反抗期真っ盛りで、最低最悪な子どもだった。いうことは聞かないし、学校での鬱憤を家族に当たり散らすし、今思うと恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになる。しかし、そんな状態でもお母さんは病院に通いながら、仕事に行き続けた。お母さんは強い人なわけではなく、強くあろうと努力し続けている人なんだと気づかされた。そんなお母さんを私は誇りに思うと同時に、迷惑ばかりかけている自分が恥ずかしくなった。そして私は変わろうと思った。

お母さんの片耳は3か月ほどで元の聞こえる状態に戻った。でも、私は戻らなかった。最低な自分に戻りたくなかった。そして、その頃からきちんと勉強しだしたのが功を奏し、私は志望していた高校に合格することができた。合格を家で知らせたあの日、自分のことのように喜んでくれるお母さんの笑顔は今でも忘れない。

高校に入学して、将来のことが気になりだした私は、仕事や結婚についてお母さんに色々と質問したことがある。その時に知ったが、実はお母さんは、大学生の時は子供を産んだら仕事を辞めるつもりだったそうだ。辞めなかった理由を聞いたら、今の仕事は男の人と対等にできる仕事で、大変なことも多いけど、その分やりがいがある、と言っていた。その答えを聞いた私は、お母さんは、現代の男女参画社会における賜物のような人だなあ、と思った。と同時に、私もそんな風に言える大人になりたいと思った。

お母さん、中学生の時、仕事に立ち向かうかっこいい姿を見せてくれて、私を変えてくれて、ありがとう。こんな大人になりたい、という目標を与えてくれてありがとう。迷惑をかけすぎて、ごめんなさいの一言じゃ言い足りません。だから、お母さんみたいに強い大人になって、行動や態度で今までのありがとうを伝えられるように、頑張ります。


★大25:働くことの大切さ

 私たちは目の前にある幸せに気付かずに生活しています。朝起きて、学校に通い、家に帰れば温かい食事が待ち、再び床に就きます。そんな毎日は当たり前ではなく、必ず誰かの支えと、勤労あって成り立っていることをつい忘れてしまい、当たり前と思いがちです。
 専門学生になり、中学生や高校生と比べてある程度の自由が生まれ、一人暮らしやアルバイトをがんばっている人は少なくないと思います。親元を離れる、あるいは初めて働くことで、お金をかせぐことの大変さ、また、自分のためだけに働きかせぐのとは違い、自分以外、つまり家族のためにかせぐお金の貴重さにも気付きました。しかし、私の母親は、病気で働くことができないため、生活保護を受けています。しかし、生活保護で支給される額は、専門学生がアルバイトをすればかせげるような額です。そのため私の母親は私の通う専門学校の授業料や補助活動費などを払うことができないため、奨学金を受給しています。その上、私には父親がいません。それは小学生の時に離婚したからです。だから、体力のある男性からの経済的支援を受けることができないので、生活が厳しいのです。しかし、私の祖母が毎日朝から夜まで働いてくれています。そんな支えがあるおかげで、学校に通えて帰る家があるといった当たり前が成り立つのである。近年では高齢化が進み、若い人の負担が増え、勤労の重要性が増えてきています。そんな時代の中で勉学に励み、将来の経済の貢献を担う人材を育てることにおいても、家族の経済支援というものは大きくかわっています。東京大学の学生の親の年収は一般に比べて高い傾向にあるという情報を耳にしたことがありますが、豊かな経済力による良い勉強環境の確保は、将来の収入にも関わっているという事実が確かに存在している世の中なのです。その中で学校に通うことができているという違った視点からみても、やはり親の経済支援には感謝をしなくてはなりません。もちろん、東大生の皆が豊かな経済力を持つ親がいるとは限らず、まして、良い就職先に就くために、親に高い給料を求めているわけではありません。親の支え無くして生活はできないという例えです。また、そんな高齢化社会では、年代を重ねるごとに平均寿命がのびてきていて、仕事における定年という概念が変わってくる可能性も十分にあり得るので、年をとっても働ける限り働き続けなくてはならない時代がくるかもしれません。これはまだ先の話かもしれませんが、2016年の平均寿命は、男性は約81歳、女性は87歳であるので、私の親にもできる限り働いてもらわなくてはいけない時代に十分なっているのです。
 私も大人になってきているので、私一人の力にもそれなりの影響があると思います。親にはできる限りがんばってほしいと願い、私にも支えられることがあるかもしれないと日々苦労を重ねるごとに痛感します。感謝の気持ちをもって、支えられる側から支える側へと親子の立場をシフトしていきたいと思います。


つづく


順次追加していきます
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