岡山大学 教育学部/岡山大学大学院 教育学研究科「国語教育講座」

卒業後の進路

平成27年度実績

※教員志望者中における採用率100%(講師を含む) ( )内は前年度
教員 小学校 10人(9)
中学校 7人(2)
高等学校 1人(2)
講師 2人(5)
一般就職 企業・その他 3人(5)
官公庁 0人(1)
進学 大学院・研究生 0人(0)
合計   23人(24)
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「教室をいきいきと」させたい

学生時代の思い出

あまり古文好きではなかった私を「意外と面白いな」と思わせてくれたのが、学部1年生のときの「宇治拾遺物語」演習です。授業は、上級生がレポーターを輪番でつとめ、発表→質問→国文学担当の先生のまとめと展開します。驚いたのは、先生ご自身がどんどん質問をされること。学生への率先垂範だと思いました。そこで、思い切って1年生ながら自分も質問してみました。解説時に「先ほどの質問にもありましたが」と、先生に取り上げてもらえたのが妙にうれしく、結局、それがきっかけで、他の講義も含め、演習形式の授業では必ず質問をすると誓いを立て、4年間実行しました。「1講義1質問」が当時の自分の合い言葉です。はた迷惑な面もあったと思いますが、自分としては「国語」に真剣に臨むための一つの方策でした。

2年生のとき、国語教育学担当の先生が大村はま先生の講演会につれていってくれました。午前中の会場校による公開授業は退屈でした。特に、グループ発表の際の「質問はありませんか?」→沈黙の繰り返しが私には苦痛でした。「せっかく広島まで来たのに…」と私は内心不満でした。ところが、午後の講演会。大村先生が、その場面に言及されました。

「質問を設ける以上、自然に質問が出るようにさまざまな仕掛けを指導者はするはずです。それでも質問が出なかった。ならば、質問はこうするのですよという手本をなぜ指導者が示さないのですか? これって『教えていない』ということになりませんか?」「発表したのに誰からも質問されない。そういうさびしい思いを生徒にさせてどうするんですか!」

厳しく、かつ温かみのある指摘です。午前中の柔和なお顔も、小さなお体も、別人のように厳しく、大きく見えました。「この人は本物だ……!」講演会の90分はあっという間にたちました。講演会終了後、大村先生の『教えるということ』をさっそく購入したことを今でも覚えています。


受験生へのメッセージ

高等学校の国語科教員といっても勤務校によって求められるものはずいぶん違います。私自身、教室で立ち往生した初任の夜間定時制高校のときと、生徒の大部分がセンター試験受験希望の現任校ではかなり趣の違った授業をしています。しかし、共通するものもあります。それは、「教室をいきいきと」させたいという思いです。学習指導要領が「言語活動の充実」を謳い、採用試験でも模擬授業が課される現在、「授業」について考察する経験を学生時代から持つべきです。国語科教員を目指すのなら、言語研究も、文学研究も、「教育」との関わりという視点を持ちつつ深めるべきでしょう。

現在の私は、日本語学の研究成果を授業に活かすという方向で日々授業実践に取り組んでいますが、これも3年生の「作文指導」の授業で、文章分析のために永野賢の文章論に取り組んだことがベースになっています。そういう意味で、自分は文学部でなく、教育学部の「国語」を選んで大正解だったなと思っています。大学を卒業して20年以上がたちましたが、国語教育学の先生には今でも毎月の研究会で薫陶を受けています。「教室をいきいきと」させたいと願う仲間がそこには集ってきます。なかなか楽しいですよ。

(岡山県公立高校国語科教員)

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引き出しの多い教員めざして

現在、小学校教諭として働いていますが、卒論では小学校で扱わない近代文学、井伏鱒二の『多甚古村』を研究しました。これから小学校専攻・中学校専攻と選んで入ってくるみなさんからすると、どうして?と感じるかもしれませんね。私の場合は遠戚という縁もあり、ちゃんと井伏鱒二について知りたいという思いから始めた卒論でした。実際に教職に就いて働いていると、直接でなくとも経験したことが生きていると感じます。

卒論では作品を読み込むのはもちろんですが、時代背景や井伏鱒二自身について調べることもします。私にとっては、井伏鱒二について知ることも一つの目的だったので、作品についての情報を得る毎にノートにまとめ、その都度どのような事が言えるのか、あえて自分の立場を明確に決めずに、考え続けながら進めていった記憶が強く残っています。

資料による研究に加えて、実際に井伏鱒二の生家や分家を訪問して、作者自身の人柄を知ることもできました。分家のお嫁さんからの逸話や子ども時代の話を聞かせてもらい、井伏鱒二自身が描いた絵も見せてもらいました。卒論のため、というよりも鱒二自身に対する興味から話題が尽きず、つい長居をしてしまったのもつい先日のことのようです。

正直、生家で聞いた話は、卒論の中にはあまり反映していません。それだけでなく、先行研究などの集めた資料の全てが引用されるわけではありません。しかし、情報は珠玉混合。できるだけ多く集めた中から本当に必要なものを読み取って選んでいく。その経験が私の財産になっているのです。

これからの情報社会を生きていく子どもたちには、あふれる情報から自分にとって必要なものを読み取っていく力が大切になってきます。ただ、そのためには教師である自分が、膨大な情報を読み取って選択していく力をつけていることが大切です。その力をつけるために、という意味でもこの卒論には大きな意味があったと思っています。

生家まで訪問したのは特別かもしれませんが、実際に働いていても教材研究と情報収集は必要です。それを元に国語の授業を組み立て、子どもたちが意図したところで反応したり「なるほど!」と笑顔を見せたりした時には、この仕事をやっていてよかったと感じます。もちろん、うまくいくことばかりではなく、思ったほどの反応がないことも多いですが、それも勉強です。

これから国語科教員を目指すみなさんには、国語の勉強だけでなく、様々なことに興味をもって経験を積んで欲しいです。受験生のみなさんには少し意外かもしれませんが、まっすぐゴールに向かうだけが道ではありません。直接関係ないように見える経験も、国語を読み解き、授業を行う上で無駄になることはありません。自分が学生の時を思い出しても授業内容だけより、それ以外の話をたくさんしてくれる先生に魅力を感じていました。

高校・大学生は本当に時間のある時代です。いろいろな寄り道をしながら、経験の引き出しの多い教員を目指してください。共に働ける日が来るのを待っています。

(岡山県公立小学校教員)

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